デジタル大辞泉で「配慮」とは、「心を配ること。心づかい。」だそうです。誰かのことを気遣い、考えて行動するというのは素晴らしいことです。とかく自己中心的な行動をとりがちになるところですが、自戒もこめて、配慮に長けた人でありたいと思います。
ただし、自他共に配慮に長けた人となるのは、並大抵のことではないと考えます。私は、配慮に長けた人というのは、結局のところ存在しないのではないかとさえ思います。
たとえば、AさんがBさんに対して配慮した行動をとったとしましょう。良心から来る行動ですから、褒められることはあっても蔑まれることはない気もします。しかしこの配慮した行動は、Aさんが考えた行動ですから、Bさんが望んでいたかどうかはわかりません。もしBさんが望んでいないのなら、それは一般的には「ありがた迷惑」といった行動になってしまいます。
Aさんにとっては、よかれと思って行動したのに、Bさんにとっては迷惑だったことが露呈すると、普通は仲違いの原因になったりします。こういうことは日常茶飯事に起こっていることですが、多くの場合はお互いの「大人の対応」によって、仲違いの危機が回避されています。
自発的に配慮するだけでも、これだけ面倒なハードルが用意されているわけですが、これが「配慮しなさい」となると、より一層面倒なことになったりします。よく誰かの行動を「配慮が足りない」などと言うことがありますが、これも普通はトラブルの種になります。
配慮が足りないという趣旨の発言で、私が一番身近な例として怖いと思ったのは、2003年1月21日に川崎市で起こった古書店での万引き事件で、その犯人といわれた中学3年生が逃亡した際に鉄道死亡事故を起こした事件を扱ったテレビでの一般人のコメントです。それまでマスコミは、古書店に批判的な報道を展開し、それを補強する形で「(書店は)配慮してくれないと」というコメントを番組内で使用したようですが、これ以降に世論の流れが逆転し、古書店に同情的になったという事例があります。
配慮そのものは、人間の良心から出る行動ですから、たとえば「配慮に長けた人」と褒め言葉に使うことはあっても、「配慮が足りない」という言葉として使えば、それは言葉の暴力と変わらないような気がしています。少なくとも自発的な行動のはずの「配慮」を、強制して誰かにやらせるのは、配慮の趣旨に反していると思います。
福音館書店から、月刊「たくさんのふしぎ」の2010年2月号として発売した「おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり」を発売中止にしたと発表がありました。喫煙したまま孫たちと同席する姿が、「たばこを礼賛している」「たばこ規制枠組み条約に違反する」と指摘があったからです。出版社側は「喫煙を推奨したりする編集意図はまったくない」との説明していますが、結局は「配慮に欠けるものでした」として謝罪して販売中止にすることになりました。
私は喫煙しませんし、はっきり言ってたばこの煙も嫌いですが、こういう物語でのたばこまで批判する気はありません。たとえば前述の通り、物語からたばこを消すのが、配慮なのでしょうか。たとえばビートルズ「アビーロード」のジャケットからたばこを消すのが、配慮なのでしょうか。誰かが無理矢理なにかを言わせたりやらせたりするのは、結局は配慮の押しつけではないかと思っています。ですが、実際に自分がその立場に立った際に、「配慮の押しつけをするな」とは言えない私は、ヘタレであることは間違いないです(汗)。
2009年12月30日
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